東大阪の歴史について

昔はどんなところだったの?
東大阪市は中核市に指定されており、人口は政令指定都市の大阪市・堺市に次いで府内3位です。現在はものづくりの街として定着している東大阪市ですが、昔はどんな所だったのか調べてみました。
東大阪市域は元々は大阪湾の奥にある小さな湾でした。時と共に海から分離し湖となり、そこに大和川から運ばれる土砂が積もって陸地となりました。
東大阪市に人が住み始めたのは旧石器時代といわれています。この頃は平野部分のほとんどが湿地で、人々の暮らしの拠点は山麓にあったとされています。縄文時代~古墳時代には山麓を中心に100以上の集落や古墳がつくられました。
飛鳥時代には河内町や若江周辺に役所のようなものが置かれていたと考えられています。
奈良時代には平城京と難波津(なにわつ・古代大阪湾に存在した港湾施設)を結ぶ街道が作られ、周辺に多くの集落ができました。この頃は大阪湾からの入江が生駒山麓まであり、万葉集にも「草香江」として詠まれています。
平安時代には上皇や貴族が熊野詣や高野山へ参詣するため生駒山麓を通る高野街道が利用されました。この頃は枚岡神社の勢力が大きく、枚岡神社の主神・天児屋根命を祖とする水走氏が領主として力を持っていました。
室町時代には畠中氏が若江城を築き河内国統治の拠点としていましたが、応仁の乱以降は家督争いにより城主が次々と入れ替わり石山本願寺攻めの際には織田方の拠点となりました。この付近は大阪夏の陣では激戦地となり、若江の戦いの舞台として知られています。江戸時代中期以降には大和川の付け替え工事が行われ、旧大和川床には新田が開発され河内木綿の産地として地域産業が発達しました。
明治時代になると河内国は河内県・堺県などに変わった後大阪府となり、村や郡が統合され中河内郡になりました。明治から大正にかけて鉄道が整備されたことをきっかけに、この地域は農村から工業地域に変化していきました。
昭和初期から中期には今の市西地区が布施市、東地区が平岡市、中地区が河内市となり、昭和42年に3市が合併し東大阪市が誕生しました。
この地域は古代はほとんどが水に覆われていたんですね。確かに高台である新石切周辺には今も遺跡や古墳が点在しています。普段はあまり意識することはありませんが、皆さんもお住まいの地域の歴史について調べてみると意外なことがわかるかも知れませんよ。
執筆者:谷口 秋代